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3 南画人としてのスタート

 

①頼山陽との出会い

頼山陽杏雨は咸宜園での生活を1828年19歳の冬に打ち切り、あこがれの京阪の地へ向かった。この地で、杏雨は優れた文人たちと接することになる。竹田の紹介で竹田と交友関係の深かった当時第一級の文人の頼山陽や浦上春琴などに会うことが出来た。

頼山陽はこの年50歳で、儒学者・詩人・南画家など多才な文人としてあまりにも有名だった。杏雨は山陽とじかに接することが出来ることで天にも昇る思いだった。浦上春琴は当時51歳で、南画家・詩人として有名だった。雲の上の存在だった春琴からも画法を学ぶことが出来て、杏雨の心は喜びに満たされた。京阪の地で多くの文人たちとの接触から受けた刺激はたいへんなもので、これがこれからの杏雨の生涯を後押しするエネルギーとなっていく。

 

 

②南画人として生きる決意

杏雨賛詩杏雨は21歳から23歳の夏まで、自宅や岡藩の竹田荘で画学習に打ち込んだ。また、漢詩や書の勉強も継続してやっていた。そして22歳の頃から自分の絵に自作の賛詩を書するようになった。賛詩とは絵の余白に書する漢詩のことで、南画は詩と書と画が一体となった特殊な画法である。

こうして、杏雨は本格的に南画人として生きる決意を固めていったのである。

 

 

 

③再び京阪の地へ

桃花流水図1832年(天保3)9月、23歳の杏雨は田能村竹田にお供して、再び京阪の地へと旅立つことになった。途中、別府港で下船し陸路をとった。立石峠を越え、宇佐神宮に参拝した。竹田は親友頼山陽の病のことが気になって、病気平癒祈願のためわざわざ立ち寄ったのだった。しかしその願いもむなしく、「山陽、死す」の報せを受けたのは、中津の雲華上人を訪ねていたときだった。竹田はあまりの悲しみでしばらくは立ち上がれなかった。山陽は竹田にとって、親友以上の存在であった。山陽は竹田の情熱と非常に優れた才能を見抜き、尊敬し、多くの人々に竹田のすばらしさを語り、その真価を説いて回った。

竹田は杏雨とともに風雨の船底で、山陽の冥福を祈りながら般若心経を何枚も写し続けるのだった。杏雨は師の姿を見るにつけ山陽との友情の深さを思い知らされた。竹田にとって、今回の旅は山陽の死という悲しみに耐える旅だった。竹田は悲しみを振り払うかのように懸命に絵を描き続けた。そして自己の画法を確立し、竹田の一生の画歴の中でも最も充実した作画を行ったのだった。竹田は杏雨の目の前で、「桃花流水図」などの名作を次々と描いて見せた。これは杏雨にとって何よりの画法習得のチャンスとなったのである。師から強い刺激を受けた杏雨自身も、夢中になって旅先で筆を走らせた。

 

 

 

 

④西遊の旅

1834年(天保5)若葉が薫る新緑の5月、25歳になった杏雨はさらなる修行のため西遊の旅に出た。玖珠から佐賀を経て長崎に到着した。当時、長崎はわが国でただ一つの開港場で、中国から数多くの書画や文物が入ってきていた。長崎で二ケ月ほど過ごした杏雨は7月になると日田へと引き返した。さらに耶馬渓、下関そして長州(山口県)の萩にまで及んだ。各地で友人宅を訪れ親しく歓談した。

 

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