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4 自立の道へ

 

①竹田の死

1835年(天保6)4月、杏雨はおよそ1年あまりにわたった西遊の旅を終えて無事帰国した。一方、竹田は「山中人饒舌」(竹田の画論集)を藩主に献上し、東上の旅に向かうべく竹田村を後にした。杏雨は師を戸次の自宅で迎えた。杏雨はめっきり老いた師を案内し、大野川の白瀧で共に舟を浮かべ春の日を楽しんだ。5月30日竹田は多くの門人や知人に見送られ乗船、翌朝三佐港を出帆した。京に着いた竹田は今回の旅の目的である画論集「近世画史」出版の作業を開始した。この夏はたいへんな酷暑だった。竹田は暑気にあたり体力が衰えているときに風邪を引き、病に臥せるようになった。そして8月29日、呼び寄せた息子の太一に看取られながら享年59歳で息を引き取った。

「竹田死す」の報せを聞いた杏雨の嘆きはたいへんなものだった。ぬぐってもぬぐっても涙があふれた。これからいったい自分はどう進んでいったらいいのだろう。羅針盤を無くした船のようにさまよい途方にくれた。到底筆を握る気にもなれず、ただ呆然と過ごす杏雨は26歳だった。

 

 

②結婚し独立

檀勝閣1836年(天保7)3月、やっと悲しみから立ち直った杏雨は3月15日、鶴崎の望京楼で亡き竹田の追悼会を催した。そして、桜が満開になった4月初旬、杏雨は体の内から力が湧いてくるのを感じながら絵筆を執った。また漢字の学習にも全力で打ち込み、自作の漢詩の校正を、儒学者で漢詩にも詳しい篠崎小竹に依頼した。杏雨は故人の遺徳を偲びながら竹田を師に持つことができた幸せをかみしめた。

1836年(天保7)、杏雨は新妻を迎えた。家も生家である帆足本家のすぐそばに新築(檀勝閣)し、両親ともども住むことになった。杏雨27歳の秋だった。

 

 

③東遊の旅へ

1838年(天保9)春、杏雨は東遊の旅へ出発した。広範囲にわたって知人宅を訪れながら今回の旅の目的である「自画題語」刊行のための準備を行った。「自画題語」は竹田が長崎旅行以降の題詞(絵の中に書いた詩)を整理して刊行しようと思いながらも果たせなかったものであった。各地に散らばる竹田の絵から題詞を書き抜いていく作業はたいへんなものだったが、杏雨はお世話になった亡き恩師竹田のために何としてでも刊行までにこぎつけたかった。

それからおよそ1年後、「自画題語」は無事刊行された。杏雨は師の恩に報い、大事業を達成した喜びで満たされた。

 

 

④作風の転換

花塘細鱗図清渓賞月図1840年(天保11)、杏雨が31歳になった頃から杏雨の作風に変化が起きてきた。結婚して独立したこと、「自画題語」刊行という大事業を達成したことなども作風の転換に踏み切るきっかけになったのかも知れない。

杏雨は以前にも増して実に熱心に中国画を学ぶようになった。現存する中国画の写しはこの時期のものが多い。また、着色法の学習が進み、多くの色彩を用いるようになってきた。
この時期に描いた作品に「花塘細鱗図」がある。頼山陽をして「杏雨は富貴」と言わしめたようにいかにも「富貴」というにふさわしいものだ。杏雨独特の優れた色彩感覚にあふれた作品である。
また、がっしりとした画面構成の「清渓賞月図」もこの時期の作品である。これらの作品は、杏雨独自の作風に転換していった初期のものである。

 

 

 

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