← 前のページへ / 次のページへ →

5 自己の画法の確立

 

①たび重なる不幸

1843年(天保14)杏雨34歳の厳冬の1月、病気がちだった母がついに帰らぬ人となった。幼少の頃から画人として自立するまで自分を愛し、一番の理解者であった母を失った杏雨の悲しみははかり知れないものだった。さらに、母の死からおよそ二ケ月後に、まだ3歳になったばかりの幼い最愛の長子まで亡くしてしまったのだ。

世の無常を心の底から感じる杏雨だった。それからというもの、人々はよく山野を徘徊する杏雨を見かけたという。母と息子をほぼ同時に失った杏雨は、約1年間、完全に喪に服し出遊しなかった。

 

②独自の絵の創造

天保九如図風雨渡航図1844年(弘化元)杏雨35歳の春、ようやく衝撃と悲しみから立ち直りつつあった。杏雨は1年間のブランクを埋めるように寸暇を惜しんで中国画に学びながら自分の絵の創造に全力を傾けた。

そして明けて1845年(弘化2)の春に完成したのが「天保九如図」「風雨渡航図」である。これらは色彩感豊かでがっしりとした構成はこれまでと同様だが、墨線に柔らかさが生じており、竹田風から脱皮して杏雨独自のカラーがよく表れている記念すべき作品である。世の無常を感じ、じっと悲しみに耐えてそれを乗り越え、この年(杏雨36歳)を境に杏雨は独創的で芸術性豊かな作品を描いていくことになる。

 

 

 

 



 

③花開く富貴の世界

36歳で独自の画風を得た杏雨は、それから46歳までの10年間、生涯で最も充実した作画期を送り、次々と後世に残るような傑作を生みだしていった。

 

老圃秋容図 道友夜月図 雪渓帰驢図

南山松柏図 風雨渡江図 巌上弾琴図

1848年(嘉永元)杏雨39歳「老圃秋容図

1849年(嘉永2)杏雨40歳「道友夜月図

1849年(嘉永2)杏雨40歳「雪渓帰驢図

1851年(嘉永4)杏雨42歳「南山松柏図

1852年(嘉永5)杏雨43歳「風雨渡江図

1853年(嘉永6)杏雨44歳「巌上弾琴図

 

④人と酒を愛す

杏雨は師の竹田と同じように生涯にわたって多くの人と交友を深めた。穏和で、わだかまりのない、やさしい人柄が人に安心感を与えたのであろうか、杏雨の周りにはいつも人が集まって来た。杏雨はまた、酒と自然をこよなく愛した。

親しい人が訪れると、大野川の白瀧で酒を入れた「ひさご」(瓢箪)をさげて小舟を浮かべ、酒を飲みながら楽しく語り合うことを無上の喜びとした。

 

 

⑤画名高まる

1848年(嘉永元)、杏雨39歳の時、朝廷の命令で山水図を制作して献上した。天皇自身が庶民の絵をご覧になるということは当時としては破格の扱いであり、まったく例外的なことであった。そのうえ天皇は、杏雨の山水図を観てたいへん喜ばれたという。父や兄もそのことを知って狂喜し、村人はこぞって祝福したという。これによって杏雨の画名はいっそう高まった。

 

⑥父と兄の死

独自の画法を生み出し、優れた作品を描くようになったことを、何よりも喜んでくれた父統度が1849年(嘉永2)、88歳(杏雨は40歳)の長寿で他界した。

思えば偉大な父であった。竹田が帆足本家のために描いた作品の詩の中で、この家の人たちは自分の芸術の最高の理解者であり、画作に際しての好環境は、名利や俗事とはかけ離れた文人にとって究極の理想郷のようだと述べているが、そういう環境をつくり出した中心が父統度であった。杏雨は冥福を祈りながら、自分と恩師竹田先生を結びつけてくれた父に感謝するのだった。

不運は続くもので、その翌年の1851年(嘉永4)2月9日、杏雨42歳のとき9代目当主として頑張っていた長兄の統禮がまだ57歳の若さで亡くなってしまった。

 

このページのトップに戻る