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1 杏雨を育てた環境

 

①温和でやさしく穏やかな人がら

杏雨肖像肖像画をみると実に柔和でやさしく穏やかな顔をしている。何かしらこちらの心を和ませるような平和な雰囲気が漂っている。つよさを内に秘め、酒と人と自然を愛し、桜や梅の花を観賞し、故郷の山に登り、友人と大野川に舟を浮かべて楽しむのが何よりも好きといったナイーブでロマンチックな自然人だった。

 

 

 

 

 

 

 

②大家族の中で育つ

杏雨は江戸後期の1810年(文化7)4月9日、戸次市組の庄屋であった帆足統度の四男として生まれ、四男五女の中で育った。杏雨は上から7番目で、まさに大家族の中で育ったのである。子どもの頃の杏雨は絵を描くことがとても好きで、おもちゃがわりに絵筆をもて遊んで育った。

 

 

③戸次の風土と帆足家

酒造江戸末期の戸次は豊後街道に沿う村であったが、近隣の村の人たちの商的需要に応える場所であり、また交通の要衝として重要な位置を占めていた。戸次平野をゆったりと流れる豊後第一の大河である大野川は、岡藩の参勤船や商いをする船が悠然と往来していた。戸次はこの母なる川から河川交通の恩恵のほかに豊かな土壌という恵みまで与えられ、地勢の利によって、戸次には市がたてられ大いに繁栄した。

市の村として、農村商易の中心の場となった戸次のような地を「在町」というが、戸次市は大分郡内でも特に発展の著しい場所であった。このような在町にあって、帆足家は庄屋職や農業のかたわら造酒を業として産をなしていった。また河川交通の便により京阪と経済的にも文化的にも強く結びついていた戸次にあって、帆足家歴代の人々は豊かな文化を享受していったのだった。

 

 

④ 田能村竹田との出会い

竹田肖像杏雨は自宅で、南画の師であり人生の師でもあった田能村竹田との運命的な出会いをすることになる。竹田が戸次の帆足本家を初めて訪れたのは1816年(文化13)の4月で、杏雨は7歳になったばかり、竹田は働き盛りの40歳だった。帆足家には父統度(雅号:茶什)をはじめ15歳上の長兄統禮(雅号:李蹊)など俳諧をたしなみ、書画を愛する文人たちがいた。

この家はさまざまな文人たちが集まるいわば文化サロンのような存在であった。竹田の才能を理解し、協力を惜しまない人たちに囲まれ、竹田はこれを機に生涯を通じてこの家と深い関わりを持つようになる。

 

 

 

 

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