← 前のページへ / 次のページへ →

2 絵と学問を志す

 

①竹田荘と咸宜園に入門

竹田荘1824年(文政7)、15歳になった杏雨は田能村竹田の薦めで、岡藩の竹田荘に入門することになった。杏雨の並々ならぬ画才を見出した師の竹田は、杏雨に絵を学ぶ者は漢詩などの学問を学び深めることの重要性を説き、当時全国的に優れた塾として有名になりつつあった日田の咸宜園に入塾することを薦めた。

 

 

 

 

 

 

 

咸宜園杏雨は15歳で正式に咸宜園に入門し、本格的に学問をすることになった。当時の塾長は廣瀬淡窓で43歳の壮年だった。咸宜園では全国より100人ほどの塾生が集まり寝食を共に学んだ。入門すると、誰でも三奪といって年齢やこれまで身につけた学問や職業などはまったく関係なく、無級という一番下の階級にされた。咸宜園での教育の特色は徹底した平等主義と実力主義であった。